「社会の進む方向」と「個人の価値観」を混合してはいけない

多様性を受け入れる社会になっているけども 

水谷です。

最近、Twitterや記事で見かける情報と、リアルの中で自分が感じることのズレを意識することが何度かありました。

WEBで僕がチェックしている情報は「社会的の進む方向や風潮」であり、逆にリアルで人と接して僕が感じるの「個人の価値観」

この二つを使い分ける、少なくと区別する必要があるのではないかと思うこの頃。今日はそんな話。

①大手志向の異業種交流会

まず一つ目の例が、最近参加した異業種交流での話。

そこはハイスペックな方がたくさん集まるパーティーでした。その日は電通、博報堂の人が多く、そしてその人が手がけたことや環境に対し「すげー!」と周りが反応していました。(僕も「すげー」と言っていました)

ただ、よくよく考えてみた時に、WEB上では「電博だから凄い」と無条件に崇めるのは古い考え方なんですよね。過労死の件もありましたし、広告代理店という立場の辛さは問題視されています。何よりもクリエイティブなことをしたいなら個人で動いた方が自由だなんて意見もよく見かけます。

「社会が進む方向」を知っているのに、現実としてはそれよりも遅れた固定観念に、僕も含めて囚われてしまっていた。

②遅刻や約束事の話

二つ目の例が、遅刻や約束事の話。

昨今では「ゆるくても良い」「多様性を認めよう」という動きがあります。きっと機械化によって人間はどんどん働かなくても良くなるので、良い意味で緩い社会へと変わっていくのでしょう。

しかしこれはあくまでの集合体としての社会の話。リアルで待ち合わせに毎回遅刻する人間や平気で約束事を破る人間は、「個人」としては信用できません。

どう違うのかを意識してみよう

大きく①と②の二つの事例を持ち上げてみましたが、実はこの二つは厳密には違います。

①の場合、「個人の実感」が「社会の進む方向」よりも遅れているという印象。

「テレビゲームが子供を犯罪に走らせる」という情報がデマだと証明されてからも、中々消えなかったように、ネットで当たり前になっていることが、個人レベルまで浸透するには時間がかかります。

②の場合、そもそも「社会」と「個人」のズレなのでしょう。いくら社会全体がそんな風潮になっても、遅刻してばかりの友人がいればいずれ呆れ果ててしまいそうです。

その場を支配している意見はどちらなのか?

大事なのは、自分が主張していること、その場を取り巻いている意見は、どちらに当てはまるのか考えることです。

例えば「失敗」の扱い方についても「社会的な方向」と「リアルな場」でズレがあります。

成功者は言います。「失敗は悪くない」「失敗を何回もした先に成功がある」と。

しかし、それを知っていながらも、何かに挑戦して失敗した友人を手放しで「凄い」と褒める人って中々いないですよね。むしろ下に見たり、安心したりすることが多い。

また自分が挑戦するときも「失敗が怖い」と感じてしまうはずです。

そんな時、自分の気持ちがどちらに属しているのか考えることが、けっこう大事だったりするのではないでしょうか?

では、今日はこの辺で!